■大衆演劇の歴史

大衆演劇の歴史

 大衆演劇は歌舞伎の強い影響を受けていますが、その歌舞伎のルーツは、出雲の阿国だと言われています。
 出雲の阿国は、出雲大社の巫女(みこ)の出身で、慶長年間(1596〜1615)のころ、京都に上って歌舞伎踊りを始めたといいます。これが「阿国歌舞伎」と呼ばれ、阿国は歌舞伎の祖とされています。
 出雲の阿国を始め、芸能を職業とする人間は「旅芸人」と呼ばれ、古来より諸国を巡業して公演し、生計を立てていました。それが変わってきたのは、江戸時代に歌舞伎が常設の小屋を持ち始めてからです。

 幕府は、江戸・大阪・京都にあったいくつかの劇場を官許(公に認めること)とし、ここで行われる芝居が「大芝居」と言われ、日本の芸能の中心となっていきました。それ以外の寺社境内などで行われる掛け芝居は「小芝居」と呼ばれ、「大芝居」とは区別されました。さらに「小芝居」とは別に、地方を巡演する劇団も少なからずあり、全国各地で興行していました。これが俗に「旅芝居」と言われるスタイルです。「大芝居」「小芝居」と「旅芝居」では、その芸のレベルや洗練のされ方に隔たりがありましたが、この時点においては「大芝居」と「小芝居」の間にはさしたる違いはなかったにも関わらず、「本流」と「亜流」という構図のまま、明治期を迎えます。

 明治政府や松竹によって手厚い保護を受けた「大芝居」は国劇と認知されて発展。それに伴い、「小芝居」との間に、次第に格式・規模・人気という差が広がってゆき、官許芝居は「大歌舞伎」、小芝居は「中歌舞伎」という呼び名が一般化します。そして、本格的な劇場が全国各地に建設された明治40 (1906)年〜大正5(1916)年ごろの間に、九州の芦屋歌舞伎など地方歌舞伎で名をなしていた役者たちと、旅芝居の役者、さらに大歌舞伎で力を発揮できなかった役者たちが集合離散を繰り返して、「中歌舞伎」は確固たる地位を築き上げてゆきます。

節劇と剣劇

 歌舞伎の影響に加え、現在の大衆演劇の成立には「節劇」と「剣劇」という2つの芝居形式が大きく関わっています。
   明治中期より、新派劇・浪曲・仁輪加・漫才などを出し物とする旅一座が現れてきました。これらは「中歌舞伎」の一座と交流を持ち、時おり合同公演を行っていましたが、そこから「節劇」(ふしげき)が生まれます。

 節劇とは、芝居の筋立て、登場人物の紹介からクライマックスの心理描写まで、浪曲師が語る浪花節に合わせて芝居を実演するもの。当時の大衆がもっとも好んだ芸能である芝居と浪曲が一度に味わえるとあって、この節劇は第2次世界大戦の敗戦直前まで各地で大流行し、特に九州地方では「大歌舞伎」の役者であっても、義太夫の代わりに浪曲を採用しないと、観客は納得しなかったと言われています。

 浪曲は義理人情をテーマとするものが多いので、その節に乗って芝居をすると、所作も見得も自然と粘っこい、情感たっぷりの表現になっていったようです。また主人公が思い入れたっぷりな台詞を朗々と吐きながら、大仰な見得をきることを「山をあげる」と言いますが、「くさい」と評されることもありました。大衆演劇独特のこの芸風も、この節劇で確立されたものです。

 また、それまでは流麗な立ち回りとして表現されていた刀の斬り合い=チャンバラを、大正8(1919)年、沢田正二郎率いる「新国劇」がリアルで壮絶な斬り合い(殺陣)として見せ、観客から大喝采を浴びたことから、チャンバラ劇=「剣劇」が大流行。昭和に入ると、股旅姿で剣を振るう「女剣劇」が大流行し、大江美智子・不二洋子・浅香光代、中野弘子などの女剣劇スターも生み、ブームは太平洋戦争後まで続きました。大衆芝居の3大テーマとして、「義理人情」「勧善懲悪」「忠孝」が挙げられますが、明快な勧善懲悪を好む観客には、派手な立ち回りで決着をつける剣劇はまさにうってつけで、現在に至るまで、この剣劇の要素は大衆演劇にはなくてはならないものとなっています。

戦後の大衆演劇

 大衆演劇は、昭和10年代(1935年代)前半に第一期黄金時代、終戦直後から昭和28(1953)年ごろまでに第2期黄金時代を迎えていると言われています。当時は北海道から九州まで、700を超える劇団があったとされていますが、いずれの時代も「満員、すし詰め、長蛇の列」だったと言われているほどの盛況ぶりでした。つまり、それほど大衆演劇は庶民の身近な娯楽として存在し続けていたわけです。この間、先に挙げた節劇や剣劇以外にも様々な要素を取り込み、また時代の流行も踏まえながら、観客本位のサービス精神に徹した舞台を展開していきました。

 現在行われている「ショー」が一般的になったのは、昭和30(1960)年代後半以降です。もともとは芝居の幕間のサービスとして始めた舞踊ショー(役者の踊り)に、しばらくすると役者本人が歌う歌謡ショーも加わりました。当時はまだ音響設備が発達しておらず、舞台でかかる音楽は全て生バンドによる演奏でした。従って役者は何かしら楽器を習得することを要求されたといいます。

 またこのころから、映画のカラー化、テレビの普及など、さまざまな娯楽が増え、大衆の趣味嗜好も多様化してきました。大衆演劇へ通っていたお客さんも次第に足が遠のくようになり、都市の再開発ブームで常打ちの劇場が取り壊されていきました。劇団はそのころより全国各地に建設され始めた健康ランドやホテルなど、「センター」と呼ばれる多目的施設でも公演をするようになってゆきました。先に挙げた「ショー」も、観客離れに歯止めをかけるべく打ち出された新機軸でしたが、そんな必死の努力にも関わらず一座の解散が相次ぎ、大衆演劇は長い低迷期に入ります。

 大衆演劇に再び光明が見え始めたのは、昭和50(1975)年代になってからのこと。かつての興行のメッカである東京・浅草に「木馬大衆劇場」、大阪・新世界では「朝日劇場」がオープンし、新たな観客を呼び込み始めました。また東京大衆演劇劇場協会・関西大衆演劇親交会、九州演劇協会といった親睦団体が発足し、それぞれ共存共栄を誓い合いました。

 もちろん各劇団も、観客本位のサービスを改めてこころがけ、そうした精神が大衆に娯楽の原点として見直されるようになりました。このころから大衆演劇はテレビや新聞、雑誌などマスコミにも多く取り上げられるようになり、改めて大衆演劇の魅力がアピールされるようになりました。若葉しげる、大日方満、美里英二、浪花三之介、樋口次郎、初代姫川竜之助、玄海竜二など、人気・実力とも申し分のない名座長たちの活躍や、昭和57(1982)年にテレビドラマに出演、歌手としてもブームを巻き起こした梅沢富美男の存在などもあって、ここに三たび大衆演劇のブームが到来しました。

 現在、『演劇グラフ』が知り得ている劇団数は100を越えています。座長は20代、30代が主となり、芝居の内容も古典的な人情時代物から喜劇、小演劇的なものまで、劇団によって、また公演場所によってバラエティに富み、新たな試みも随所になされています。ショーでも演歌・浪曲・民謡を使った従来の舞踊や歌に加え、若手役者では最新のJポップや洋楽を採用し、踊りも流行を取り入れた激しいものも多く、若い観客でも飽きさせない、見応えのあるものも少なくありません。


※橋本正樹さんの「大衆演劇の歩んできた道」(芝居通信別冊『大衆演劇座長名鑑2003』所収)を参考にさせていただきました。